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アブラモビッチはなぜ

 本物のナイフでロシアンゲームを行う《Rhythm 10》。燃える五芒星の中で横たわる《Rhythm 5》。強力な扇風機の風を目一杯吸い込み続ける《Rhythm 4》。たくさんのアイテム(その中には銃すらある)と自分自身のからだを観客に委ねる《Rhythm 0》。マリーナ・アブラモビッチはこの《Rhythm》(1973-1974)と名付けた一連のパフォーマンスを行なったことでよく知られ、特に《Rhythm 0》は伝説的な作品として多く語り継がれている。しかし素朴な疑問が浮かぶ。これのどこがリズムなのか?平たく考えれば、それほどリズムを意識させるような内容でもないし、強いて言えば《Rhythm 10》のロシアンゲームにリズムの要素が認められるかな…くらいのものだろう。なぜリズムなのか?

 ただ、現象学を通してリズム論を読み進めていくと、なるほどこれは確かにリズムだ、と僕は思った。アブラモビッチはリズム論に精通していたのか?と思えるほどに。

 アブラモビッチの他の作品にも共通して見られるのが、あまりにも存在感のある彼女自身の身体と、その身体が(痛みをともなって)危険に晒された状況だ。ざっくばらんに見ればとてもマゾヒズムな彼女の作品は、避けがたい共感を喚起する。その理由は明白で、身体がおおよそ個性を失うかたちで限りなく純粋な肉体=記号の次元に移されることによって、鑑賞者の身体と交換可能な状況に強いられるからだ。彼女がパフォーマンスの中で取る行為はどれも簡単に実行できてしまうもので、寝るだけ、立っているだけ、状況さえ無視すれば誰にでもできる。彼女の身体がそれを観るわたしの身体でありうる、という可能性の程度が甚だしい。鑑賞者が不意に自分の身体を重ね合わせて観てしまうのだ。言い換えれば、主体と客体の境界が揺さぶられ曖昧になる。そしてそこに加えられる苦痛が、僕の理解ではリズムを生み出す。

 彼女は痛いけれどわたしは痛くない。でも彼女の身体はわたしの身体のように感じる。そして痛みを想像する。でもわたしの身体はわたしの身体だ。この2つの実感に挟まれて、明らかな外郭を有する鑑賞者の身体は非常にアンビバレントな状態に置かれる──身体の在り様が更新され続ける。時間が経つほどに痛みはエスカレートしていく。

 アンリ・ベルクソンはリズムについてこう言う。「我々の人格の能動的なというよりもむしろ反抗的な諸力を眠らせ、われわれを完全に従順な状態に導いて、それが暗示する観念をわれわれに実現させ、こうして表現された感情にわれわれを共感させる」と。

 昨秋僕は作品未満の実践をいくつかした。イヤホンのラジオから聞こえてくる音声を5分間シャドーイングするパフォーマンス。本を音読しながらだんだんと酩酊してゆく映像。それを実践した当時は考えが曖昧だったけど、アブラモビッチの身体とリズムを志向していたんだな、と書きながら気づいた。

2022.02.25

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