リトルネロ──その場限りの秩序

 ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著である『千のプラトー』には「リトルネロ」という寓話がある。概略するとこうだ。

 

暗く怖い森の中を歩いている幼子が歌を口ずさむ──小声で何度も同じ箇所を繰り返しながら。そして幼子は自分の家に着くと、別の歌を口ずさみながら、作業に没頭する。作業に飽きるとまたもや別の歌を口ずさんで、幼子は家を飛び出していってしまう。

 

 この口ずさまれた歌、短かなフレーズの繰り返しをリトルネロという。これはまぎれもなくリズムの話であり、秩序の話だ。まずもって、幼子が口ずさむリトルネロは常に反省的な性格を持っている。つまり自分の歌った声が自分に跳ね返って聞こえてくるということだ。一つのフレーズがフィードバックし続けることで、一つの循環系がその場に生まれる。暗い森が輪郭をもたない不定形の恐ろしいカオスだとするなら、リトルネロはかたちを持ってカオスに抗うためのささやかな秩序だ。そしてこの秩序は家への帰着をもって終了させられ、幼子は次の局面へ入る。今度は抗するための秩序ではなく、集中をするための秩序、視野を限定するための秩序と言える。リトルネロにつられるように、身体もまた反復をゆるやかに強いられ、作業を半ば外的に遂行させられる。さらにまた「飽きる」ことによってこの秩序も終了させられ、最後の局面、ついに幼子は家からでてゆく──新たな秩序を携えながら。

 ドゥルーズとガタリが語ったこの寓話において、重要な要素としてリフレイン(反復)がある。リフレインはまさにその繰り返しの作用によって、その内部に安定した領域=秩序を形成する。しかしその安定は絶対的なものではない。現に、私たち人間は完璧な反復は行えないし、その理想は機械に託された。そうではなく、リフレインが作る秩序は常に幾分かの差異を伴って変容し続ける。つまり同じものの繰り返しの中に絶えず違うものを呼び込むのだ。秩序はその都度形成され、その場限りの領土が獲得される。(そういえば、ドゥルーズによれば全てのアートはポスター=立て札であり、領土化の宣言らしい。)

 このリフレインの特徴は二つのことを思い出させる。

 まずひとつにルートヴィヒ・クラーゲスが『リズムの本質』で語った格言──「拍子は反復し、リズムは更新する」。リズム論におけるトピックのひとつに、拍子とリズムの関係がある。多くの論者にとって、拍子は精神による量的な規律であり、リズムは体験による質的な生命内実である。そもそもリズムの語源であるリュトモス ῥυθμός rhythmos は、川や文字や衣服のように「揺れ動きつつもある一定のかたちを認められるようなかたち」という意味を含んでいた。これはまったくリフレインの為す働きと同じではないだろうか。

 そしてもうひとつに、カール・ポパーが提唱した科学論のテーゼ──反証可能性。科学にとって積み重ねを前提とした仮説=推測が、常に反証される可能性をもって提示されることが重要である、という主張だ。言ってしまえば、科学という営みが「真の知」をめざすものではなく、「思いこみ」の連鎖だと言う一種の開き直りとも考えられるだろう。これもどこか常に違うものを呼び込み続けるリフレインの特徴によく似ている。そして、ある一つの仮説/価値観に巻き込まれ、それを信じる共同体を指してトーマス・クーンは「パラダイム」と呼んだ。そんなパラダイムも、例えば天動説や特殊相対性理論の登場といったように、科学的な革命によって大きく転換させられる。このことも、リトルネロの最後の局面が見せる構造ととても似てはいないか。

2022.02.19