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制作・研究

 昨日カブトムシのホームページがリリースされた。アルバムと新MVもあと一歩のところまで来てる。がんばろう。

 この1週間強はCAFの作品審査に向けた構想実験とルフェーブル『rhythmsnalysis』の英語版を和訳してた。前者は《Rhythm space #12》を下地に2m四方へのリサイズを試みている。この作品シリーズが自分にとってすごく中心的な軸になっているように思えてならない。汎リズム論を考えるためのまあまあ極端なモデル制作、といった感じだ。ただ、そのモデル自体が抽象的なものであって、実際の作品はどちらかというと生々しいというか、得ようとしている現象に対して構成要素が物々しいなと、常にどこかで感じている。あえて素材感を前に出していると言えば、なんとなく意味ありげだし、自分でも幾分かは納得している(事実世界は具体的でいつも仰々しいから)けれど、もっと理想と実際の上手い付き合い方がありそうな気はしている。(まあいつもインストールの疲弊で作品の細やかな処理ができていない、ことが一番大きいのだけれど。。。)一度、回路部分やケーブルあたりを完全にパッケージしてしまった方が絶対にいいんだろうな…面倒臭い…。以前畠山さんが言っていたけれど、心の中にある完璧な理想を現実の世界に出そうとしたときに起こる、本当にたくさんの様々な問題、これとどう付き合っていくかを探るのがアートスクールの使命である。このことを聞いたときに真っ先にデュシャンの話を思い出した。企図と結果が隙間なく結びつくことが科学の責任であり、その隙間をこじ開けて/そのままにして霊性を召喚することが芸術の得意だ、と。関係ないけどいま書きながら、ランシエールが「政治と美学は同じものだ」と言う話も思い出した。

 後者のルフェーブルは、僕のいまもっぱらの関心ごとだ。社会学者・哲学者の彼の晩年?というか死後に編纂された『rhythmanalysis』は、リズムの概念を通して物事を観察・分析するための手法や実践について書かれたものらしく、タイトルは彼による造語だ。『空間の生産』が最も有名らしいが、僕にとってこの『rhythmanalysis』は山崎正和のときに感じた衝撃に近いものを受ける予感がしている。いま考えると山崎はなんでルフェーブルやブルレや山下の仕事に言及していなかったんだろう…。それほどまでに独力で考え抜いていたんだろうか?山崎と同様、ルフェーブルもやはり「身体」がリズムについて/を通して考える上で最も前提となるもののようだ。リズムにとってはあらゆる面で、身体を起点として考えを進めていくべきらしい。同意です。ただここで何の引っ掛かりもなく考え始めると、僕はすぐ主体と客体なんてものを想定してしまう。その対立項を取り上げる限りでは取り逃してしまうような話が恐らく多く出てくるような気がしている。山崎を読め。

 「身体」と言えば、3月に個展が決まった。前回の初個展は「僕の考えぜんぶ大放出・開帳祭」みたいな感じでバラバラだった思考群を「リズム」の語で一括りに束ねた気持ちだったから、今度は逆方向にがっつり絞ってちょうど単一になるようなテーマにしようと思った。それが「身体」。普段僕は自分のことを肉体派と勝手に言いふらしているから、そこに着目して今回の個展は臨もうと思う。身体にフォーカスして、むしろ身体しか見えなくなってくるような状況から、かすかにリズムへの緒が見えるような、そんな構成になれば万々歳だろうな…。頑張りたい。

 こないだ作ったカレーはうっかり放置しちゃって腐りました。

​2021/09/20

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