ワクチン・共感

 わけあって恋人の実家に泊まっている。いま午前7時。徹夜明け。

 La Señas本家?のメンバーに正式に加入した(のか?)。今週末レコ発ライブがある予定で、昨日はそのリハに出ていた。そして今日はワクチン2回目の接種がある。偶然そのリハ会場が恋人の家にほど近く、そして恋人の家は僕の家よりもワクチン接種会場に近かったもので、いま恋人の実家にいる。夏休みのはずなのにここ数日はやることが多い。頼むからワクチンの副反応でダウンすることがありませんように…。

 

​ 電車に揺られながら、ふと以前の自分のツイートを思い出した。(これ)。先週は大学院の集中講義で、「他者とどう在ることができるか」といった感じのテーマを主軸にして現代美術を取り上げる田中功起さんのレクチャーを受けた。その中でたびたび感じたのが、大文字の他者の存在だった。僕らは気兼ねなく「共感」について考えたり言及したりできるけれど、その共感は果たしてどのような過程を持っているのか。これは汎リズム論の重要なテーマの一つでもある。

 到底私があなたに/彼女に/彼らになれるはずもなければ、その逆もありえない。あなたの経験を僕は経験することができない。にも関わらず、私があなたに共感しようとすると、この無理難題を半ば要請される。しかし無理難題であったはずなのに、なぜか自然と僕たちは共感できてしまう。共感が属する想像の類は、自らが経験したことのないことを経験しようと欲望する働きだ。そのためには思考の飛躍が必要となり、飛躍のためには自身の経験という土台が必要になる。先のツイートでは「自分が過去に受けた痛みないし感覚を再編することが共感ということ」と書いていた。再編するにはするけれど、そこからの飛躍の仕方もやはり経験に裏付けられる。果たして僕らは最初の共感をどのようにして経験したんだろうか。

 恐らくは身体的な模倣から始まっているのだろう。相手の表情なり動きなりを真似ることが、共感の第一歩となる。あなたにはなれないけれど、真似はできる。あとまあ同じタイプの経験、類似の経験によるものがあるか。それこそワクチン。副反応こえー…。

 アンリ・ルフェーブルの『リズム分析 rhythmanalysis』の英訳版を買った。邦訳はない。理想を言えば来月までに訳したい気持ち…。

2021/09/07