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意味

 かぐや様は告らせたいを最新刊まで読んだ。やっぱり少年誌系のラブコメが好きだ。ラブ>コメよりもラブ<コメだ。全員が幸せになってほしいしせめてマンガの中だけでもずっと笑っていたい。昔から途中で悲しくなるストーリーが苦手だ。そのせいでほとんどのジブリ作品も通しで見れないし、テレビドラマも見れない。物語の起伏をつけるために、最後の大団円と感動のために持ち込まれる悲劇を受けつけられない。そのことで学部のはじめの頃は悩んでいたけど、最近はこの自分の性格を少しは肯定できるようになってきた。

 あまり関係のないことだけれど、かぐや様を読みながら「作品」が持つ意味性についての考えが突然固まった。思考が散らばらないうちに急いで落書き帳に書き残したものを、軽く清書しつつ書き下してみたい。ここからは、美術や音楽、演劇などのほとんどをひっくるめて実践と呼ぶ。あと、色々と言葉選びは雑だが。

 伝統的な形式や内容をもった実践に対して、多くの鑑賞者は「美しく」「綺麗な」「圧倒的な」「崇高な」といった、情感をもつ。<〜中世・(近代)19世紀以前?>そして、伝統からどこか逸脱した実践に対して、多くの鑑賞者は「どのような意味なのか」「何を意図しているのか」といった、解釈を試みる。<(近代)・現代〜20世紀以降?>。つまり鑑賞者は、現代的な実践に対して、それまで/伝統的な実践では取り上げなかった「意味」というものについて、途端に考え始める。

 しかしここで、僕は「この世のあらゆる事物に意味はない」という前提/立場をとる。理由はまだ考えがまとまらないので書けない。(理由──意味──経緯はグラデーションのように連なっている。)

 この「意味はない」という前提に立てば、ある実践を前にしてその意味を追うことは、終着点のない迷宮をグルグルと彷徨う時間/徒労しかもたらさない。しかし、このような時間を過ごすことでしか得られない類の発想・発見・アイデア・問題解決というものが確かにある。書きながら、話しながら突然考えがまとまるような体験と似て、徒らに思考を回転させながらでした掴めない体験がある。ここで特徴的なのが、前者は書いている内容/話している内容がまとまっていくのに対し、後者は考えようとしている内容とは全く別のものを獲得してしまうことだ。このようにして獲得したものには何らかの唯一性、価値があるように思える。

 まとめると、「意味はない」と思いながら、敢えて目の前の実践の意味について考える無駄な時間は、予想外の価値をもたらす。

 上に書いたことを、実践者の側から考えてみる。

 自分の行う実践に明確な意味・理由を持たせると、鑑賞者がその意味を理解した途端にその実践は単なる消費の対象となる。しかし、かえって全く無意味で鑑賞者と関係を一切持てないような実践は日常と地続きになってしまい思考を霧散させてしまう。であれば、価値のある実践とは「意味ありげな」ものであって、それは観る者に良質な徒労を与えるだろう。

 以上がかぐや様は告らせたいを読みながら考えていた、おおよそかぐや様とは関係のない発見。部屋のエアコンを28℃設定の冷房にして常時つけている。ホットサンドメーカーは非常に優秀。

​2021/08/29

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