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休息・リズム2

 怒涛のスケジュールで雑記を書く暇もなく、1ヶ月近く空いてしまった。旧居を完全に退去して、学校での前期の成果展が終わって、三菱の奨学生に選出されて、23歳になった。1ヶ月どころか、2週間足らずで全部起こったのか。院に入ってまだ半年も経っていないのが信じられないくらいだ。しかしやっと正式な夏休みがきた。

 夕方に起きて、アニメを見て、色々な事務処理みたいなものを済ませて、カップ麺とビールを喉に通していたらもう4時だ。これを書いてるのは午前4時です。台風が来ているらしく、さっきまで雨が降っていた。この調子だともう降らないだろう。僕の記憶にあるほとんどの台風は、日の出とともに去っている。

 「人間にとって、リズムというものほど広く感じとられる現象は少ないのではないだろうか。」山崎正和の『リズムの哲学ノート』の読み直しを始めた。改めて、自分の指針になる本があるということに対して、祈りにも似た感謝の気持ちが浮かんでくる。救いのような書き出しだ。嬉しい。以前大和田さんに、君はかなりセンスでやっている、ということを言われた。そのときは多少ムッとなったけど、いまはその言葉がすんなり受け入れられる。僕は数年前の自分が思うほど理知的ではなくて、むしろ能天気でチャランポランしている。それでも、何もわからない状態で「リズム」のテーマを引き当てられたのは、この上なく幸運なことだと思っている。

 自分語りはともかく、件の書の序章でたびたび感じたことがあって、それはリズムにおける「規模」の問題──スケーラビリティだ。リズミカルだと表現できる状況/現象は、そのほとんどが1秒程度で区切ることのできるものだ。音楽しかり、ダンスしかり、リズミカルになるためには相応の速さ、ある種の細かさが必要となる。これはリズムをどれだけ強く感じるかという感覚的な強度に対して、ある現象が有しているそれ自身のスケールが極大となるような状態を持っていると考えられるんじゃないか。絵画の全体に対する筆致の大きさであったり、ドラムのビートに対するBPMであったり、最もリズムを感じられるような適切なスケールが存在しそうな気もする。しかしこれらの適切さはそれを感じる者自身が可能な範囲での運動の快感、ないし興奮であって、これらだけがリズムを強く感じる場面であるわけでもない。先に極大と書いたが、特異点とも言えるようなスケールの状況が確かにある。山崎が挙げる例にならえば、千年の森の盛衰や生命史、宇宙史、そして僕がそこに付け足すなら自分の身体の細胞が入れ替わっていく代謝の働き、消化、分子の動きなど。山崎はこれらを「身体感覚と知識が総体となって感受するもの」としているが、ここで言う知識というものは、対象のスケールを自分の身体のスケールに圧縮/拡張する働き、とも言えるんじゃないか。スケーラビリティだ。これを僕らはどこか自然にやっている気がしている。ある建物・建築を想起する際、まず外観が浮かぶだろう。そして同時に、もし実際そこに行ったことがあるなら、中を歩いた経験を凝縮し無意識的に全体の見取り図のようなものも浮かぶんじゃないか。同じようなことが例えばマリオカートのコースを思い浮かべようとする際に、苦戦した部分を思い出しつつ、スタートからゴールまでの経験を凝縮した、時間の結晶とも呼べるような一つの時間を獲得する。

 リズムはいつも後から感じる。だからこそ先読みができる。僕は、誰もがあるなにかの渦中にいるなら、そこからリズムを感じるようなことはないだろうと思っている。それは当然で、リズムなんぞ考えている場合ではないからだ。でも、音楽は今まさに目の前で起こっている音と動きにリズムを感じるほかないような状況だしな…。やっぱナシ。いまのナシナシ。全体を見ようとする中で避けがたく目の前に現れる個。これはすごくリズムらしい。

 いま自室でこれを書いていて、視界の端には新しく作るウォールシェルフと机のために買った木材が積まれている。夏休み中にケリつけたいな…。引っ越しが終わったとは言え、まだ全然住環境が整っていない。はやく机作ってコーヒー環境建てるか。がんばろう。今から寝てバイト行く。カップヌードルの塩味を初めて食った。一番うまかった。

​2021/08/08

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