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めし漫画

 漫画の中でも特にご飯ものを扱った漫画が好きだ。将太の寿司、トリコ 、クッキングパパ、食戟のソーマ、パパウチ、いつかティファニーで、忘却のサチコ、八雲さん、、、ご飯自体が美味しそうなのもあるけど、食べた時のリアクションが面白くて読んでいるものもある。将太の寿司とかソーマとかがそんな感じ。

 この頃ワカコ酒を定期的に読んでいる。今日はSP.2 自宅酒2の回を読んで、色々なことを考えた。何かを食すことで得られる満足感、これはアートにない感覚だと思う。物質的な満足でもありつつ、その味覚を経由して得られる精神的?満足でもある。料理の音を聞き、美しい盛り付けを見て、立ち上る香りを嗅いで、箸やフォークを介して食材の質感に触れ、口の中で味わう、、、五感で食を楽しむ!みたいな文言もよくみられるけど、勿論それは食に限ったことではない。むしろ、意図的に遮断しない限り何を経験するにせよ五感が使われることは避けられない。(アイマスクしかり、暗室しかり、耳栓しかり。)話は逸れて唐突だけど、思うに五感の中で最も記憶と結びついているのは嗅覚なんじゃないかと常々思う。原風景とかサウンドスケープとか、色々記憶と結びつく場面は多々あるにせよ、匂いほど一瞬で意識を過去に連れ去る現象はない。その上、それはしばしば不意に訪れる。ふとした瞬間に「小学校の匂いがする」と思ったり、「実家の匂いがする」と思ったり。現代のアカデミックな音楽実践において語られる未聴感の話題も、匂いの話にすればもう少し身近な感覚で考えられると思うけど…。

 ただこの五感云々の話は置いといて、アートの経験と食の経験は比較するに十分値する気はしている。なにか展示なりテキストなりを読んで「あ〜満足した」と感じることは確かにある。ただそこでの満足感というのは、裏を返せば疲労感を指している。時間をかけて提示されているものを読み解き、ダラダラと何かしらを考え、その間歩き回ったり姿勢を変えなかったりすることから来る疲労だ。映画を考えると分かりやすいか? 少なくとも30分以上、ないし1時間以上、同じ場所に座り続け、かつ同じ方向を見続け、その間大きな音と強い光に晒されているが、映画の"内容"に集中している限りは疲労を感じづらい。観終わった後にどっと来る種類の疲れ方がある。このことを考えれば、展示やテキストを通して得られる満足感は、みる者の意識を引きつけ疲労を忘れさせる効果に支えられているのだろう。でもこれはあくまで作用の話で、上で考えていた食の経験との比較とはズレている…。いや確かに食も同じで、食事自体は疲れる。大盛りラーメン食べた後でも、料理した後でも。だから食器洗いを先延ばしにしてしまう。食べたらすぐに食器を洗え。さもなくば紙皿を使え。

 思うに、アートと食それぞれの経験は質的にかなり異なっているんじゃないか? アートがArs 技術であり、そして余裕ある者の営みだとするなら、食の盛り付けはどう語ればアートになるのか? 多分これは「装飾」とか「素材」とかの話になるんだろうな。アートとグルメ、ではなくアートと食と言っているのは少しばかり目配せをしているから。

 ハイボールを飲んでいます。今日はソファベッドが届きました。やっと新居の寝袋生活から解放された。学部時代にはなかったソファ。ソファのある家。ソファは最高。椅子も最高だけど、ソファは特に最高。狂喜。

​2021/07/03

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